一期一会
代表取締役 川上健夫
堕落極めた学生時代
創業者である父は、新しいもの好きで、町内で一番早くテレビを買うようなタイプでした。車は当時の花形、日産ダットサンのピックアップ。 母の一番の自慢は、町内で一番早く起きて仕事をしているということでした。メッキには乾燥がつきもの。おが屑を使って火をたくのですが、これが中々火がつかない。だから朝の4時には湯を沸かし始めるんです。 そんな父と母のもとで育った私は、大学の受験勉強に疑問を抱きながらも、合格して東京で遊ぶぞ!の一心で上京。毎月10万円の仕送りをもらい、なんとも贅沢な学生生活を過ごしました。 将来を真剣に決めなければならない時期に到っても、進みたかったデザインの世界で認められることなく、また、そこに対して熱いものも特にないまま、3年のところ6年かけて卒業しました。 本は良く読みましたが、それ以上によく遊びました。 人間は堕落する。でも、墜ちるところに墜ちて、初めて真実の自分を発見し、救われる。 人間は堕落はしても、決して 堕落しきれるものではないということを知った時、なんだかとても楽になりましたね。 眠りながらうなされている親父を思い出し、「孤独なんだな。」「経営って大変なんだろうな。」と感じたのですから不思議なものです。 仕送りをもらい、遊んでばかりいないで、伊那に帰り、助けてあげなければと目が覚めました。自ずと道は決まったのです。 2歳の時に養子として川上家へもらわれてきたことを知ったのは高校生の時。親父とおふくろは本当に良くしてくれました。 |
1950年 サンメッキ工業有限会社当時の工場 |
働くことの喜び私が24歳でサンメッキに入社した時、工場は狐島にありました。今でも忘れません。 朝の7時から夜の9時まで汗を流して働く毎日。でも「堕落」を極めた私にとって労働する時間は、気持いい以外の何物でもありませんでした。 家に帰ると、おふくろが「お疲れ様」と言ってくれるでしょ。働くとほめられる。おまけに金がもらえるんですよ。(笑)
なぜ?メッキ屋には、人がこない。暗くて、寒くて、暑い。 「きれいで明るい、いい環境の会社を建てよう。」そうすれば若い人達も定着し活気のある会社作りが出来るだろうと32歳で決心し、そして35歳の時、狐島を離れたのでした。 まだ社長ではありませんでしたが、この頃から責任をもって全ての仕事を仕切っていました。でも、銀行にお金を借りることができたのは、偏に父の信用のお陰です。 感謝の一言です。
はじめてのピンチ、そして
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狐島当時の作業所風景(1960年頃) 狐島工場と同時に建てた社長の上棟式風景 新工場、地鎮祭の模様(1986年) 新工場 |
人が企業価値をつくるわたしたちの利益はお客様の満足度に比例します。 それを実現するのは、全て「人」です。サン工業にしかできないことを心がけ、ニーズがあり、ハードルの高い商品をいかに増やしてゆくかは働く人たちの力によってのみ実現できることを私たちは長い時間の中で学びました。 仕事は厳しいものです。その厳しい時間の中でも楽しくなることを企画するのが私の重大な任務ですね。 通常のボーナス以外に、期末ボーナスを支払うのが今の私の生きがいです。
企業の社会的責任2005年に排水処理設備を完全リニューアルしました。 地元のみなさんに安心していただくという社会的責任をカタチで示すことはサン工業の大事な仕事の1つです。
日本の製造業のサポートインダストリーとして |
社員教育 SUN Day |